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Channel: 梶山徹夫の『愁思符庵日記』
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『清寥寥』(せいりょうりょう)白的的(はくてきてき)』

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秋晴れが訪れた朝の空(14日)。
早朝からの活動日で、午前中の青空に誘われて宿河原の二ヶ領用水沿いにある緑化センターへ散歩に出かけた。
もちろん、同行援護であるが、当人は中途視覚障害者で見えていた時代もあり、秋の花のイメージは出来るようだ。
女性だから花の話しは喜ばれる。
見えていた時代にこのセンターに来た記憶があるようで、木の配置や花壇の様子を訊ねて来る。
ダリアの季節でもあり、花に手を導くと嬉しそうであった。
視力はうっすらと見える程度で、光の具合ではそれすら見えないと言う。
珍しい黄色の彼岸花が2鉢おいてあった。

イメージ 1

秋明菊が咲いていたので説明すると、鎌倉の瑞泉寺の名前が出た。
視力を失う前の趣味を窺わせる一時で、話が盛り上がった。

イメージ 2

昼前の空は、残暑の厳しさを見せていた。
『清寥寥 白的的』とは「大慧書(だいえしょ)」にある言葉で、心の汚れを徹底して洗い落とす禅の教えである。
透き通った心でいるための修行とも言える。
貪欲やこだわり、利欲や嫉妬が絡みつく心は、放っておくとその汚れは落ちなくなる。
しかし、禅の教えは、人の心ほど本来清浄なものはないと説く。
それは生まれたばかりの乳幼児を見れば分かることだ。
清浄な心に変える努力を重ねれば、人は人相もよくなり、人間関係も好転すると言う。
散歩しながら、秋空を見上げると、清寥寥と思わず言葉が溢れた。
二ヶ領用水を更に進むと、石碑が用水脇に立っている。

イメージ 3

読んで下さいと頼まれたので読み上げたが、何と『徒然草』115段にこの宿川原の地名が出てきていることを記したものだった。
この地にぼろぼろと呼ばれる今で言う、修行僧崩れのホームレスがたむろしていたと言う。
そこへ、自分の師を殺めたぼろぼろを探して一人のぼろぼろがやって来て、そのぼろぼろの名をあげて尋ねた。
すると、一人のぼろぼろが名乗り出て自分だと言う。
仇討ちに来たぼろぼろに、ぼろぼろが答えた訳だが、この地は修行場だから汚すわけにはいかない、近くの河原に降りて心行くまで戦おうと申し出て、二人のぼろぼろは互いに絶命するまで戦った。
その話を、鎌倉に行く途中にでも聞いたのだろう、吉田兼好は、ぼろぼろは世捨て人だが、生に固執しない潔さがあると、好意的に書いている。
多摩川の宿の河原でのことだったのだろう。
この地を宿河原と呼ぶのはそう言う謂れか。
いささか湿度の高さを覚える秋空だが、博打屋も宿河原のぼろぼろになったような気分だ。

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