冬型の気圧配置が強まり、日本海側は厳しい寒さに、太平洋側は乾燥した晴天に見舞われている(18日)。
急きょ全休日となった今日だが、やることは山ほどある。
今年こそは断捨離と新年を迎えて決意したのだが、何一つ捨てたものがない。
何しろ、狭い『愁思符庵』に2台の不用テレビが鎮座しているのだから、がらくたの中に人一人分のスペースがあるようなものだ。
室内を見回すとうんざりするのだが、ゴミ屋敷の大方がそうであるように、持ち主から見ると決してゴミではないところが始末悪い。
もっとも、テレビに関しては処分するのにお金がかかる。
恐らく1台3~4千円かかるのだろうから、中々出せないでいる。
買い取り業者も最近は回って来ないせいもある。
1年使わなかったものは、未来永劫自分にとっては不用なものと心得なければ断捨離なんてとても出来ない。
改めて依頼品を眺めてみると、ではなく、改めて室内を見渡してみると、驚くなかれ不用品ばかりだ。
暖かくなったら、きれいさっぱり処分するぞと、今日も決意を新たにした。
思えば、毎年この時期そう決意している気がする。
さて、暖かくなるころこの決意はどうなっていることやら。
今年はとうとう年賀状も出さず、寒中見舞いも間に合わなくなった。
70歳を迎える今年を機に、すべての人々に対し年賀の挨拶を始め、社会的儀礼から引退させてもらうことにしようかと思っている。
知人の会社社長が、何年前かにそう言って一切の社交を絶って引退された。
もっとも、その社長は息子に代を譲ったので、表舞台から去りたいと願ったようだ。
新米1キロ袋に稲穂が付けられ、各方面へ引退挨拶が出された。
博打屋にも届いたが、それもありかなと思ったものだ。
博打屋はそんな気の効いた挨拶は出せないが、もう年賀の挨拶はよいかなとも思う。
週初めが祭日だったので、今週は週末が早い。
明日(19日)からまた中山競馬だ。
今週は知人馬主の馬が何頭か出走する。
正月競馬だから馬主も出走初めとして期するものも大きかろう。
何とか好結果を祈るしかあるまい。
博打屋にとっても出来高に影響する。
先週の3日間競馬を何とかしのいだ博打屋だが、直前の六本木朝日神社、川崎大師詣でが効いたか。
お大師さまの言葉に
「加持の義、加(か)とは諸仏の護念(ごねん)なり。持(じ)とは我が自行(ぎょう)なり」
というのがある。
『秘蔵記』に見られる言葉だが、大意としては「加持とは、我々をお護りくださる仏さまのお力を深く信じ、自分の力にすること」。
加持祈祷とはよく使う言葉だが、護摩修行のお加持を受けたお札を授かり、仏さまに幸せを祈願することはとても清らかな信仰だという。(大本山川崎大師平間寺・法話板)
そもそも「お加持」とは、その仏さまのお力を受けとめ、しっかり保ち、仏さまと一つになる修行。
同時に、「お加持」は仏さまのお力で、お札が清められることも表わしてもいる。
護摩修行で導師は仏さまのお力をいただき、その時、お札も清められ、仏さまの分身となる。
何よりも大切な点はそれを深く信じる心。
そして、自らの意志で仏さまのお力を受けとめなければならない。
信仰は人らしい生き方に欠かせない大切な事柄。
それを確かな生きる力にするよう努めようと大師は教えているようだ。
正月に川崎大師に詣でたのも何年ぶりかだったが、この月だからこそ、仏の教えに触れる機会もあるのだろう。
正月の縁日は初大師、初恵比寿などと初が付く。
近々七福神巡りもしてみようかなとも思っている。
週末を前に、またまた神仏頼みの博打屋だが、そろそろ梅の便りも聞こえてきた。
急きょ全休日となった今日だが、やることは山ほどある。
今年こそは断捨離と新年を迎えて決意したのだが、何一つ捨てたものがない。
何しろ、狭い『愁思符庵』に2台の不用テレビが鎮座しているのだから、がらくたの中に人一人分のスペースがあるようなものだ。
室内を見回すとうんざりするのだが、ゴミ屋敷の大方がそうであるように、持ち主から見ると決してゴミではないところが始末悪い。
もっとも、テレビに関しては処分するのにお金がかかる。
恐らく1台3~4千円かかるのだろうから、中々出せないでいる。
買い取り業者も最近は回って来ないせいもある。
1年使わなかったものは、未来永劫自分にとっては不用なものと心得なければ断捨離なんてとても出来ない。
改めて依頼品を眺めてみると、ではなく、改めて室内を見渡してみると、驚くなかれ不用品ばかりだ。
暖かくなったら、きれいさっぱり処分するぞと、今日も決意を新たにした。
思えば、毎年この時期そう決意している気がする。
さて、暖かくなるころこの決意はどうなっていることやら。
今年はとうとう年賀状も出さず、寒中見舞いも間に合わなくなった。
70歳を迎える今年を機に、すべての人々に対し年賀の挨拶を始め、社会的儀礼から引退させてもらうことにしようかと思っている。
知人の会社社長が、何年前かにそう言って一切の社交を絶って引退された。
もっとも、その社長は息子に代を譲ったので、表舞台から去りたいと願ったようだ。
新米1キロ袋に稲穂が付けられ、各方面へ引退挨拶が出された。
博打屋にも届いたが、それもありかなと思ったものだ。
博打屋はそんな気の効いた挨拶は出せないが、もう年賀の挨拶はよいかなとも思う。
週初めが祭日だったので、今週は週末が早い。
明日(19日)からまた中山競馬だ。
今週は知人馬主の馬が何頭か出走する。
正月競馬だから馬主も出走初めとして期するものも大きかろう。
何とか好結果を祈るしかあるまい。
博打屋にとっても出来高に影響する。
先週の3日間競馬を何とかしのいだ博打屋だが、直前の六本木朝日神社、川崎大師詣でが効いたか。
お大師さまの言葉に
「加持の義、加(か)とは諸仏の護念(ごねん)なり。持(じ)とは我が自行(ぎょう)なり」
というのがある。
『秘蔵記』に見られる言葉だが、大意としては「加持とは、我々をお護りくださる仏さまのお力を深く信じ、自分の力にすること」。
加持祈祷とはよく使う言葉だが、護摩修行のお加持を受けたお札を授かり、仏さまに幸せを祈願することはとても清らかな信仰だという。(大本山川崎大師平間寺・法話板)
そもそも「お加持」とは、その仏さまのお力を受けとめ、しっかり保ち、仏さまと一つになる修行。
同時に、「お加持」は仏さまのお力で、お札が清められることも表わしてもいる。
護摩修行で導師は仏さまのお力をいただき、その時、お札も清められ、仏さまの分身となる。
何よりも大切な点はそれを深く信じる心。
そして、自らの意志で仏さまのお力を受けとめなければならない。
信仰は人らしい生き方に欠かせない大切な事柄。
それを確かな生きる力にするよう努めようと大師は教えているようだ。
正月に川崎大師に詣でたのも何年ぶりかだったが、この月だからこそ、仏の教えに触れる機会もあるのだろう。
正月の縁日は初大師、初恵比寿などと初が付く。
近々七福神巡りもしてみようかなとも思っている。
週末を前に、またまた神仏頼みの博打屋だが、そろそろ梅の便りも聞こえてきた。