有馬記念のファンファーレが日々近づく今週だが、幸いにも今日までは冬型の晴天に恵まれてきた(21日)。
クリスマスも週明けに控え、師走も残り10日と言うカウントダウン。
仕事も今日までが平常で、明日からの3連休後はクリスマスが続き、そのままバタバタと御用納になるのだろう。
博打屋も有馬記念を明後日に控え、明日からの中山競馬で落ち着かない。
悪いことに天気が下り坂との予報だ。
28日に最後の中山競馬が行われるものの、気分としては有馬記念を最後の競馬と位置付けている。
寒いのは仕方ないが、雨だけは何とか避けてもらえぬか。
もう何十年も、中山のクリスマスツリーをその年の競馬見納めとしてきた博打屋としては、やはり感慨深くツリーを見上げたいではないか。
今週は一昨日(19日)の同行援護で高幡不動を訪れた。
実に指折り数え35年を優に超える再訪となる。
博打屋は一昔前、百草団地というところに身を寄せていた時期がある。
その団地はこの高幡不動からバスで行っていた。
わずかの期間だったのだが、駅前からバスに乗った記憶がある。
ひなびな門前町の風情が記憶にあるが、肝心な高幡不動尊には一度立ち寄った記憶があるだけだ。
しかし、一昨日訪れてみて、歳月のそこはかとない力と言うものを見せつけられた気がした。
博打屋の記憶がおぼろげだったこともあろうが、浦島太郎とはこの事かと驚愕。
すっかりと駅前の風景が変わっていた。
先日訪れた伊勢原大山寺とこの高幡不動と成田山新勝寺が関東三不動尊だと言うことで、同行援護の利用者が行ってみようと提案した。
京王線高幡不動駅だからアクセスは楽である。
一つ手前の聖蹟桜ヶ丘も博打屋には馴染みの町だが、それも遥か昔の話。
気安く高幡不動と呼んでいるが、正しくは真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺と言う。
草創は古く大宝年間(701)以前とも、奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられている。
その後、平安時代初期に慈覚大師円仁が清和天皇の勅願によって山中に不動堂を建立し、不動明王を安置したことに始まるという。
幾度かの焼失を経て、昭和50年以降の大工事により、五重塔・大日堂・鐘楼・宝輪閣・奥殿等が復興され、更に近年大師堂・聖天堂が再建され漸く往時を凌ぐ程の寺観を呈するようになったようだ。
来たことには違いないのだが、こんな規模ではなかったかと思う。
今回改めて見直すと、博打屋が訪れたのは大日堂改修完了(昭和62)以前なのかもしれない。
何れにしても、立派な不動尊には違いない。
奥殿に安置された丈六不動三尊を初めて見た。
重文の不動明王坐像の左右に同じく重文のこんがら童子、せいたか童子像である。
総重量1000キロを超える巨像で1000年ぶりの修復完了だそうだ。
残念ながら、扉越の拝観で写真が撮りづらい。
境内は大変広く、三万余坪の広さがある。
博打屋の記憶には、紫陽花があるのでその季節に来たのだろう。
今回初めて見たのが土方歳三像だ。
そのくらい、男前の像だ。
新撰組副長土方歳三は天保六年、市内石田で生まれ、明治2年、函館戦争で戦死している。
歳三の生家は高幡山の檀頭格の旧家だそうだ。
重文の不動堂は康永元年(1342)、山中から移建されたものだ。
最初に掲載した、仁王門も重文で昭和34年の解体修理で楼門に復原されたものだそうだ。
懐かしの高幡不動と言うべきだが、知識としては初めての高幡不動尊学習となった。
利用者の方が記憶が新しいだけに、参道の店は教わるようだったが、博打屋の記憶の参道は、焼き鳥屋とパチンコ屋しかない。
何れも既に無かったが、店が増えたのが驚きでもあった。
もしかすると、博打屋が疎いだけで、結構な門前町として賑わっているのかもしれない。
五重塔塔院には無料休憩所や千体地蔵堂がある。
クリスマスも週明けに控え、師走も残り10日と言うカウントダウン。
仕事も今日までが平常で、明日からの3連休後はクリスマスが続き、そのままバタバタと御用納になるのだろう。
博打屋も有馬記念を明後日に控え、明日からの中山競馬で落ち着かない。
悪いことに天気が下り坂との予報だ。
28日に最後の中山競馬が行われるものの、気分としては有馬記念を最後の競馬と位置付けている。
寒いのは仕方ないが、雨だけは何とか避けてもらえぬか。
もう何十年も、中山のクリスマスツリーをその年の競馬見納めとしてきた博打屋としては、やはり感慨深くツリーを見上げたいではないか。
今週は一昨日(19日)の同行援護で高幡不動を訪れた。
実に指折り数え35年を優に超える再訪となる。
博打屋は一昔前、百草団地というところに身を寄せていた時期がある。
その団地はこの高幡不動からバスで行っていた。
わずかの期間だったのだが、駅前からバスに乗った記憶がある。
ひなびな門前町の風情が記憶にあるが、肝心な高幡不動尊には一度立ち寄った記憶があるだけだ。
しかし、一昨日訪れてみて、歳月のそこはかとない力と言うものを見せつけられた気がした。
博打屋の記憶がおぼろげだったこともあろうが、浦島太郎とはこの事かと驚愕。
すっかりと駅前の風景が変わっていた。
先日訪れた伊勢原大山寺とこの高幡不動と成田山新勝寺が関東三不動尊だと言うことで、同行援護の利用者が行ってみようと提案した。
京王線高幡不動駅だからアクセスは楽である。
一つ手前の聖蹟桜ヶ丘も博打屋には馴染みの町だが、それも遥か昔の話。
気安く高幡不動と呼んでいるが、正しくは真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺と言う。
草創は古く大宝年間(701)以前とも、奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられている。
その後、平安時代初期に慈覚大師円仁が清和天皇の勅願によって山中に不動堂を建立し、不動明王を安置したことに始まるという。
幾度かの焼失を経て、昭和50年以降の大工事により、五重塔・大日堂・鐘楼・宝輪閣・奥殿等が復興され、更に近年大師堂・聖天堂が再建され漸く往時を凌ぐ程の寺観を呈するようになったようだ。
来たことには違いないのだが、こんな規模ではなかったかと思う。
今回改めて見直すと、博打屋が訪れたのは大日堂改修完了(昭和62)以前なのかもしれない。
何れにしても、立派な不動尊には違いない。
奥殿に安置された丈六不動三尊を初めて見た。
重文の不動明王坐像の左右に同じく重文のこんがら童子、せいたか童子像である。
総重量1000キロを超える巨像で1000年ぶりの修復完了だそうだ。
残念ながら、扉越の拝観で写真が撮りづらい。
境内は大変広く、三万余坪の広さがある。
博打屋の記憶には、紫陽花があるのでその季節に来たのだろう。
今回初めて見たのが土方歳三像だ。
そのくらい、男前の像だ。
新撰組副長土方歳三は天保六年、市内石田で生まれ、明治2年、函館戦争で戦死している。
歳三の生家は高幡山の檀頭格の旧家だそうだ。
重文の不動堂は康永元年(1342)、山中から移建されたものだ。
最初に掲載した、仁王門も重文で昭和34年の解体修理で楼門に復原されたものだそうだ。
懐かしの高幡不動と言うべきだが、知識としては初めての高幡不動尊学習となった。
利用者の方が記憶が新しいだけに、参道の店は教わるようだったが、博打屋の記憶の参道は、焼き鳥屋とパチンコ屋しかない。
何れも既に無かったが、店が増えたのが驚きでもあった。
もしかすると、博打屋が疎いだけで、結構な門前町として賑わっているのかもしれない。
五重塔塔院には無料休憩所や千体地蔵堂がある。