3月もまだ終わりきっていないが、気温がぐんぐんと上がる日が続く(27日)。
毎日がサクラの話題で持ちきりだが、今年のサクラは軒並み早いようで、満開情報、散り始め情報が早くも聞こえてくる。
今日明日は近場の賭場もなく、絶好の花見日和予報だから全休日とした。
『愁思符庵』で高校野球か国会の証人喚問中継の手もあるが、春爛漫の日中をインドアで過ごすのはもったいない。
書を捨て、寺を目指せの精神で、百花繚乱の花狩りに出向く。
今日(27日)の散策は鎌倉の海蔵寺から亀ケ谷坂切通を抜け、北鎌倉明月院に至る馴染みのコース。
ついでに北鎌倉光照寺を訪ねる。
昼前に鎌倉北口のスタバで一服、ここから3時間も歩くと、この3寺をゆっくりと見て来られる。
海蔵寺には何度も行っているが、近年訪れる人が増えているようだ。
北口エリアの寺院でも、扇ヶ谷の奥止まりに位置しているので、観光バスで訪れる寺ではない。
北口から横須賀線沿いに歩くと、寿福寺、英勝寺があるが、さらに奥まった辺りに海蔵寺に行き当たる。
途中、左手の山道に向かうと仮粧坂(けわいさか)切通に入り込む。
この切通は山道だから、ハイヒールでの鎌倉観光姿では厳しい。
登れば源氏山公園や葛原岡神社、銭洗弁財天へ抜けられるので、案内図だけを見てそのコースを取ると、とんでもないことになる。
海蔵寺までの道々には、静かな佇まいの住宅が続く。
この寺の開山・源翁(げんのう)禅師は心昭空外といい、謡曲の『殺生石』に語られる人物である。
その昔、鳥羽天皇を悩ませた白狐を那須野ヶ原(栃木県)で三浦義明に討たせた。
その白狐が石と化して人々を苦しめ始める。
石にさわったすべての生物が死んでしまうので、当時の人々はこの石を「殺生石」と呼んで恐れおののいた。
そこで、源翁禅師が登場する。
禅師は越前の人で、会津の示現寺で長らく修行し、建長寺の大覚禅師に参禅・修学、のちに海蔵寺再建のおり開山に迎えられた人だ。
那須野に脚を踏み入れて、目の当たりにしたのは白骨の山。
禅師はおもむろに経文を唱え、全力を込めた杖で殺生石を一撃した。
石はたちまち砕け散り、以来、石の霊は成仏して人々は安穏に暮らすことができたという。
謡曲のストーリーだが、博打屋が言いたいのは、金槌のことを玄能(げんのう)と言う、その由来がこの源翁(げんのう)禅師の振舞いからであることだ。
海蔵寺は臨済宗建長寺派の古刹で建長五年(1253)に再建されている。
その心構えは、自然の良い所を自分のものとして作庭することにある。
これを基本とし、さらに「乞(こ)はんに従う」という言葉に添う。
これは自力宗である禅宗の自然観である。
自然の地形や岩石、樹木の要求に従って石を置き、樹を植え、作者自身の心中の自然を表現することである。
この庭園も扇谷山の溪間に造られ、「心字池」を中心に何の変哲もない石が、それぞれの「心」という生命を与えられて雪見灯籠などと共に池辺にたたずみ、ひっそりと石の五重塔も配されている。
静かに庭園を眺めていると、「乞はんに従う」の意味するところが伝わって来るような気がする。
来た道を引き返し、亀ケ谷坂切通を抜け北鎌倉へ出た。
毎年、桜の時期にやって来ている。
この明月院への道の入り口の桜を、何回見ただろう。
毎日がサクラの話題で持ちきりだが、今年のサクラは軒並み早いようで、満開情報、散り始め情報が早くも聞こえてくる。
今日明日は近場の賭場もなく、絶好の花見日和予報だから全休日とした。
『愁思符庵』で高校野球か国会の証人喚問中継の手もあるが、春爛漫の日中をインドアで過ごすのはもったいない。
書を捨て、寺を目指せの精神で、百花繚乱の花狩りに出向く。
今日(27日)の散策は鎌倉の海蔵寺から亀ケ谷坂切通を抜け、北鎌倉明月院に至る馴染みのコース。
ついでに北鎌倉光照寺を訪ねる。
昼前に鎌倉北口のスタバで一服、ここから3時間も歩くと、この3寺をゆっくりと見て来られる。
海蔵寺には何度も行っているが、近年訪れる人が増えているようだ。
北口エリアの寺院でも、扇ヶ谷の奥止まりに位置しているので、観光バスで訪れる寺ではない。
北口から横須賀線沿いに歩くと、寿福寺、英勝寺があるが、さらに奥まった辺りに海蔵寺に行き当たる。
途中、左手の山道に向かうと仮粧坂(けわいさか)切通に入り込む。
この切通は山道だから、ハイヒールでの鎌倉観光姿では厳しい。
登れば源氏山公園や葛原岡神社、銭洗弁財天へ抜けられるので、案内図だけを見てそのコースを取ると、とんでもないことになる。
海蔵寺までの道々には、静かな佇まいの住宅が続く。
この寺の開山・源翁(げんのう)禅師は心昭空外といい、謡曲の『殺生石』に語られる人物である。
その昔、鳥羽天皇を悩ませた白狐を那須野ヶ原(栃木県)で三浦義明に討たせた。
その白狐が石と化して人々を苦しめ始める。
石にさわったすべての生物が死んでしまうので、当時の人々はこの石を「殺生石」と呼んで恐れおののいた。
そこで、源翁禅師が登場する。
禅師は越前の人で、会津の示現寺で長らく修行し、建長寺の大覚禅師に参禅・修学、のちに海蔵寺再建のおり開山に迎えられた人だ。
那須野に脚を踏み入れて、目の当たりにしたのは白骨の山。
禅師はおもむろに経文を唱え、全力を込めた杖で殺生石を一撃した。
石はたちまち砕け散り、以来、石の霊は成仏して人々は安穏に暮らすことができたという。
謡曲のストーリーだが、博打屋が言いたいのは、金槌のことを玄能(げんのう)と言う、その由来がこの源翁(げんのう)禅師の振舞いからであることだ。
海蔵寺は臨済宗建長寺派の古刹で建長五年(1253)に再建されている。
その心構えは、自然の良い所を自分のものとして作庭することにある。
これを基本とし、さらに「乞(こ)はんに従う」という言葉に添う。
これは自力宗である禅宗の自然観である。
自然の地形や岩石、樹木の要求に従って石を置き、樹を植え、作者自身の心中の自然を表現することである。
この庭園も扇谷山の溪間に造られ、「心字池」を中心に何の変哲もない石が、それぞれの「心」という生命を与えられて雪見灯籠などと共に池辺にたたずみ、ひっそりと石の五重塔も配されている。
静かに庭園を眺めていると、「乞はんに従う」の意味するところが伝わって来るような気がする。
来た道を引き返し、亀ケ谷坂切通を抜け北鎌倉へ出た。
毎年、桜の時期にやって来ている。
この明月院への道の入り口の桜を、何回見ただろう。