雨水を過ぎたが、雨の気配もない首都圏の空だ(20日)。
青空が広がり、梅の花が満開となった。
もっとも、それほど一生懸命勉強したわけでないので、納得の敗北感である。
終わった今にして思えば、ああすれば良かった、こうしておけば良かったと、思いは様々だが、賽は投げられた。
昨日(19日)の葉山行きで一区切りついた感だ。
訪ねた知人の写真家S氏は若くしてニューヨークに住み、当時の新鋭クリエーターたちとの交流が深かった。
当時の本を見ると、後年名だたるクリエーターとなる仲間たちとの写真がある。
今のS氏からは想像つかない、ロングヘアーのヒッピー集団だ。
もっとも、こう言う人たちが日本にニューヨークを持ち帰ったからこそ、学生時代の博打屋もロングヘアーだったのだ。
S氏のその後の写真家としての活躍は言うに及ばないが、身近なところでは、創刊以来AERAの表紙の人物写真を撮り続けていた。
昨日、お宅で拝見したAERAの集大成本には、最後辺りにノーベル賞の山中氏が登場していた。
競馬界からは三浦皇成騎手のデビュー当時が最後になるか。
S氏はこの時期に原因不明のアレルギーで大病を患う。
ちょうど博打屋が帯状疱疹で苦しんだ時期だった。
当時の写真を見ると、S氏の全身には、博打屋の帯状疱疹の程度をはるかに越える湿疹、水疱が広がり、顔にまで及んでいる。
なんとも痛々しく、精神的にも落ち込んだそうだ。
当時事情を聞いた博打屋は、これほどとも思っていなかったが、1年間の闘病になったそうだ。
長い入院生活で、3年間仕事から離れたと言う。
梶さん、すっかり貧乏になったよとS氏は笑う。
しかし、そんなS氏の窮地を思わぬものが救ってくれたと明かす。
ニューヨーク修行中、S氏はある女性写真家に師事していた。
そのオフィスには何人かのアメリカ青年たちが集まっていたが、彼らは時間が来ると厄介な手伝いはS氏に押し付けてさっさと帰ったそうだ。
日本人のS氏は、その写真家に心酔していたので、苦にもせずアシスタントの仕事を率先して引き受けていた。
汚いアパート暮らしのS氏の話からは、当時のニューヨークが彷彿される。
と言っても博打屋は知らないが、半世紀前のニューヨークと思えば、映画などから想像はつく。
そんなS氏の手伝いに、女性写真家が毎回当時の1~2ドルを心付けにくれていたそうだ。
しかし、S氏はその金を使わず貯めて、ある時返したと言う。
自分は写真家の作品が好きで、好んで手伝いをさせてもらっているのだからと。
すると、その写真家が自分の気に入った作品の原版をくれたそうだ。
もちろん、S氏の宝物となった。
その後時は流れ、世界的な写真家として名声を得たその女性写真家だったが、自ら命を断ってしまった。
先年、闘病生活で窮地に陥ったS氏は、苦渋の結果、その原版を手放す決意をした。
しかし、彼女の作品はすべて管理者のサインかなければ売買出来ない。
そこで、S氏は残された遺族に手紙を書き、事情を話したそうだ。
幸い、当時オフィスに出入りしていた写真家の妹さんが管理者の一人でもあり、S氏のことを覚えており、快く許可してくれたそうだ。
その作品が売れ、高額な病院代をカバーしてくれたそうだ。
何れも千万円単位の話だ。
ボロボロになったんだよ、とS氏はそれでも楽しそうに話す。
自分の作品も何百万円かで売れたりしたそうで、今は好きな葉山で暮らせる健康を取り戻している。
梶さん、散歩行こうよと目の前の柴崎漁港に3人で出掛けた。
驚くほど海が透き通っている。
毎日、この防波堤に散歩に来るのだそうだ。
この岬にあるマンションの一室を数年前まで奥さんが所有していたそうだ。
震災後、海の真ん前であることに不安を感じ手放したそうだ。
今は某女優さんが所有している。
岬の護岸を一回りしてお蕎麦屋に行くことになった。
マンションに戻り、車を呼んでS氏お気に入りのお蕎麦屋に向かった。
桜山と言う高台の住宅地にあるお蕎麦屋で、昼からお酒を頂いて梅見と洒落込んだ。
奧さんに言わせると、気難し屋のSさんが、他人とお酒を飲むのは珍しいと言う。
葉山の海が、心を穏やかにしてくれるのだろう。
昨日(19日)は博打屋が葉山入りをしたので、マンション付近に警備の警察官があちこち立っていた。
博打屋の為ですかねぇと奧さんに言うと、きっと陛下がおみえになるのよと言っていた。
一色海岸の海上にも、神奈川県警の船が停泊している。
うん、やはり葉山なのだ。
青空が広がり、梅の花が満開となった。
もっとも、それほど一生懸命勉強したわけでないので、納得の敗北感である。
終わった今にして思えば、ああすれば良かった、こうしておけば良かったと、思いは様々だが、賽は投げられた。
昨日(19日)の葉山行きで一区切りついた感だ。
訪ねた知人の写真家S氏は若くしてニューヨークに住み、当時の新鋭クリエーターたちとの交流が深かった。
当時の本を見ると、後年名だたるクリエーターとなる仲間たちとの写真がある。
今のS氏からは想像つかない、ロングヘアーのヒッピー集団だ。
もっとも、こう言う人たちが日本にニューヨークを持ち帰ったからこそ、学生時代の博打屋もロングヘアーだったのだ。
S氏のその後の写真家としての活躍は言うに及ばないが、身近なところでは、創刊以来AERAの表紙の人物写真を撮り続けていた。
昨日、お宅で拝見したAERAの集大成本には、最後辺りにノーベル賞の山中氏が登場していた。
競馬界からは三浦皇成騎手のデビュー当時が最後になるか。
S氏はこの時期に原因不明のアレルギーで大病を患う。
ちょうど博打屋が帯状疱疹で苦しんだ時期だった。
当時の写真を見ると、S氏の全身には、博打屋の帯状疱疹の程度をはるかに越える湿疹、水疱が広がり、顔にまで及んでいる。
なんとも痛々しく、精神的にも落ち込んだそうだ。
当時事情を聞いた博打屋は、これほどとも思っていなかったが、1年間の闘病になったそうだ。
長い入院生活で、3年間仕事から離れたと言う。
梶さん、すっかり貧乏になったよとS氏は笑う。
しかし、そんなS氏の窮地を思わぬものが救ってくれたと明かす。
ニューヨーク修行中、S氏はある女性写真家に師事していた。
そのオフィスには何人かのアメリカ青年たちが集まっていたが、彼らは時間が来ると厄介な手伝いはS氏に押し付けてさっさと帰ったそうだ。
日本人のS氏は、その写真家に心酔していたので、苦にもせずアシスタントの仕事を率先して引き受けていた。
汚いアパート暮らしのS氏の話からは、当時のニューヨークが彷彿される。
と言っても博打屋は知らないが、半世紀前のニューヨークと思えば、映画などから想像はつく。
そんなS氏の手伝いに、女性写真家が毎回当時の1~2ドルを心付けにくれていたそうだ。
しかし、S氏はその金を使わず貯めて、ある時返したと言う。
自分は写真家の作品が好きで、好んで手伝いをさせてもらっているのだからと。
すると、その写真家が自分の気に入った作品の原版をくれたそうだ。
もちろん、S氏の宝物となった。
その後時は流れ、世界的な写真家として名声を得たその女性写真家だったが、自ら命を断ってしまった。
先年、闘病生活で窮地に陥ったS氏は、苦渋の結果、その原版を手放す決意をした。
しかし、彼女の作品はすべて管理者のサインかなければ売買出来ない。
そこで、S氏は残された遺族に手紙を書き、事情を話したそうだ。
幸い、当時オフィスに出入りしていた写真家の妹さんが管理者の一人でもあり、S氏のことを覚えており、快く許可してくれたそうだ。
その作品が売れ、高額な病院代をカバーしてくれたそうだ。
何れも千万円単位の話だ。
ボロボロになったんだよ、とS氏はそれでも楽しそうに話す。
自分の作品も何百万円かで売れたりしたそうで、今は好きな葉山で暮らせる健康を取り戻している。
梶さん、散歩行こうよと目の前の柴崎漁港に3人で出掛けた。
驚くほど海が透き通っている。
毎日、この防波堤に散歩に来るのだそうだ。
この岬にあるマンションの一室を数年前まで奥さんが所有していたそうだ。
震災後、海の真ん前であることに不安を感じ手放したそうだ。
今は某女優さんが所有している。
岬の護岸を一回りしてお蕎麦屋に行くことになった。
マンションに戻り、車を呼んでS氏お気に入りのお蕎麦屋に向かった。
桜山と言う高台の住宅地にあるお蕎麦屋で、昼からお酒を頂いて梅見と洒落込んだ。
奧さんに言わせると、気難し屋のSさんが、他人とお酒を飲むのは珍しいと言う。
葉山の海が、心を穏やかにしてくれるのだろう。
昨日(19日)は博打屋が葉山入りをしたので、マンション付近に警備の警察官があちこち立っていた。
博打屋の為ですかねぇと奧さんに言うと、きっと陛下がおみえになるのよと言っていた。
一色海岸の海上にも、神奈川県警の船が停泊している。
うん、やはり葉山なのだ。