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Channel: 梶山徹夫の『愁思符庵日記』
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『南無・帰依する心』

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明るい日差しがカーテンの隙間から差し込む朝(21日)。


蝶よ花よと浮かれているうちに自然界は粛々と己が道を進んでいる。


我が『愁思符庵』の庭も花ニラやケシ、シランが咲き始めネギまで伸びてきた(写真)。



前のお宅の藤やヤマツツジも見頃を迎えている(写真)。


ゴールデン・ウィークの声も間近になり、鯉のぼりも泳ぎ始めた。


柿の若葉も鮮やかな光沢を日の光に跳ね返している(写真)。


北国の春はこれからだろうが、花と若葉が一緒になるのが北国の美しさ。


今週末の福島最終週は桜がきれいだろう。



関東はハナミズキと共に葉桜と新緑の季節を迎える(写真)。


昨日(20日)の皐月賞も強い馬が強いレースをして各々の着順を確保した。


パドックで馬を見た限り、馬格と言う意味からイスラボニータはやや迫力に欠けたが、やはり走る馬と言うのは往々見た目に派手さはないものだ。


出走馬の中ではこの馬が一番強いとの博打屋評価が間違っていなかった事を、馬自身が証明してくれた。


パドックで知人のトラックマンがトーセンスターダムを1頭だけ抜けた存在と評したが、博打屋はそれを否定した。


馬格は立派なトーセンスターダムだが、昨日(20日)の出来では好走の期待は出来ないと確信があった。


イスラボニータを見落とした専門家たちの見解は、基本的に馬とレースに対する見識の脆弱さがあると思う。


少なくとも、そうした専門家の評価は今後アテに出来ない。


負けたトゥザワールドも良い馬だ。


昨日の結果は騎手の気持ちのアヤ。

少し馬の気持ちに負けたのではないか。


ダーヒー狙いと言うトーセンスターダムだが、目先の1冠が取れなくてダービーもクソもないが、馬っぷりからすると期待出来なくはない。


ともあれ、暑い新潟で見たイスラボニータが買ってくれたのが嬉しい。


博打屋が好きなフジキセキの仔が親の果たせなかったクラシック出走で戴冠したことは喜ばしい。


もう1頭のフジキセキは入れ込みが課題だ。


週明けのゴミ出しに出て横山畳店でお茶を頂いた。


先週は親父さんが桜花賞の単勝を買って2千円が4千200円になったと笑っていたが、昨日はお母さんが単勝を買って少し楽しんだそうだ。


2月の雪の頃、極貧で籠城していた博打屋だが、隣家の奥さんが入院先で亡くなったのを全く知らなかった。


1年前に越して来られて話す機会はほとんとなかったが、博打屋よりはるかに歳上のご夫婦。


残されたご主人は寂しい事だろう。


散ってしまった桜を惜しみ、これから咲く北国の桜に思いを馳せると、やはり西行と言う人を思わずにいられない。


仏道と歌道のはざまを生きて往く西行の人生に、後世の人々は畏敬の念さえ抱く。


報われる事のない愛に生き、みずから遁世の道を選んだ西行にとって、仏の教えとはいったい何だったのか。


漠然と長年「南無阿弥陀仏」「南無法蓮華経」「南無観世音菩薩」「南無地蔵菩薩」「南無大師遍照金剛」などと言ったり聞いたりして来たが、「南無」とは何ぞやと思う。


瀬戸内寂聴さんの「仏教への誘い」と言う法話から学ばせてもらうと、「南無」とはサンスクリット語の「ナーム」の漢字表記。


「帰依します」の意味を持つ。

従って、南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまに帰依しますと言っている訳で、浄土宗・浄土真宗・時宗ではこれを六字名号(ろくじみょうごう)と言って祈りの言葉としている。


何気なくお寺やお葬式で唱えていた六字名号は、それを唱える事で阿弥陀さまの誓願によってすべての罪も許され、浄土に迎えられるのだそうだ。



南無妙法蓮華経は日蓮が、釈迦の説かれたお経の中で妙法蓮華経が最も素晴らしいとして、それを信仰の中心に据えたもの。


南無観世音は、観自在大菩薩(観音さま)に帰依しますと言う事。


観音さまは現世で人々を幸せに導いて下さると信じ、宗派にとらわれず信仰の対象となった。


南無大師遍照金剛は真言宗の人々の称え。


大師とは弘法大師(空海)のこと。


四国八十八ヶ所巡礼ではこれを称えて祈る。


これらは、中国の求道心篤い僧侶が、国禁を犯しヒマラヤを越え、インドに渡り仏教を学び、命がけで多くの経典持ち帰った事に由来する。

それらは中国語に訳され、朝鮮を経て今日の漢訳経になっている。


また、多くの日本の僧侶が命がけで中国に渡り、経典を写し持ち帰った事は歴史で学んだ。


瀬戸内寂聴さんはこの「南無」に込められた熱い祈りについて説いてくれている。


南無と言う言葉に込められた祈りの熱さは、そうした人々の命がけの尊い努力がこもっており、宗派を問わず、信仰の行き着く先は同じだと言う。


つまり、「信は任すなり」。

任すとは、自我を捨て去って、全身全霊を仏に捧げ、どうともして下さいと身を投げ出して、お任せすることと言う。


ここからが大切なのだが、「私たち凡夫のはからいなど、大したことはありません。人間は生きている上で、考えられないような様々な災難や苦労に遭います。その時、自分の信じる仏に『南無』といって命も運命もお任せしてしまえば、そしてそれが出来ればどんなに気が楽になることでしょう。そから必ず道が開けて来るのです。」



1922年生まれの瀬戸内寂聴さんは今でもこの「信じて任せる帰依の心」を広く平易に説いておられるのだろう。


隣家のご不幸を知らぬまま花の季節を過ごしたが、博打屋も「南無」の意味を噛み締める今日だった。


開店休業は月末近くに辛いところだが、梨の粒落としを明日(22日)から依頼されている。


早いもので受粉した花が既に実を付け始めた。


間引いてやらねばならない時期だ。

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