季節の変わり目を肌で感じる朝となった(26日)。
寒さが戻った週明けだが、本来なら雪になっていたか。
2月最後の週で、月末を明後日に控える。
いつもの月より3日も短いと、得したような、損したような複雑な気持ちだ。
今日(26日)は2・26事件の日だが、82年も昔の事件だから知る人も少ない。
そう思っていたら、朝送迎に向かったデイサービスの利用者の一人の男性が、当時小学校6年生だったと話してくれた。
狛江の学校にいたそうだが、ラジオから流れる不穏な放送を覚えているそうだ。
インパール戦線の帰還兵でもある人だ。
しかも、その事件で辛うじて生き残った首相を、反乱軍からかくまった女性と、兄が身近だったと言う。
もちろん、事件当日の真相は長らく閉ざされたままだったそうだ。
1936年の今日は本当に雪だったのかと聞くと、確かに雪で寒かった記憶があると言う。
この事件は陸軍の内部抗争を背景に引き起こされたクーデターであり、戒厳令が出された事件である。
博打屋の叔父はこの事件の研究者であり、貧乏学者であった。
原宿の東郷会館でよく研究会を開いていたことは知っていたが、大学生の博打屋はあまり近寄らなかった。
今にして思えば、あの頃この叔父を利用していれば、もう少し博打屋の人生も変わっていたのだろうが、当時はそんな生き方を良しとしない青年だった。
一度だけ、東郷会館に会いに行ったことがある。
博打屋が原宿に住み始めた時だ。
まだ、パレスランスが出来る前だった。
以来、2・26事件の日が来る度に、母親の兄を思い出す。
子供のいなかった夫婦で、叔父の死後、叔母さんは故郷の愛媛に帰った。
何時亡くなったのか、博打屋は知らない。
文京区白山高橋だけで郵便が届いていた叔父だが、もう少しこの事件について聞いておけばよかった。
それにしても、今日の利用者さんは、昭和の証人として大変な人だと改めて思う。
小学校の最高年で2・26事件を知って以来、この人の人生は昭和の戦争の歴史と共にあるのだ。
今朝、送迎の運転中に聞いたこの人の言葉は、博打屋の胸にズサリと響いた。
何も良いこと無かったよ、の一言だ。
日本の歴史は、82年前の今日を境に1945年の終戦まで戦争の歩みを選ぶ。
この激動期に青春を過ごした人の人生とは、一体どういうものだったのか、残念ながら博打屋には想像すら及ばない。
しかし、日本が戦争への舵をきるに至る当時の時代背景を正確に学び、適正な評価を下すべく現代人の責任は何時の時代にもあるのでないか。
叔父は恐らくその使命を抱いて、この昭和のクーデターを研究していたと思う。
博打屋が生きている限り、今日(26日)は縁薄かった叔父夫妻を思い出す日だ。
寒さが戻った週明けだが、本来なら雪になっていたか。
2月最後の週で、月末を明後日に控える。
いつもの月より3日も短いと、得したような、損したような複雑な気持ちだ。
今日(26日)は2・26事件の日だが、82年も昔の事件だから知る人も少ない。
そう思っていたら、朝送迎に向かったデイサービスの利用者の一人の男性が、当時小学校6年生だったと話してくれた。
狛江の学校にいたそうだが、ラジオから流れる不穏な放送を覚えているそうだ。
インパール戦線の帰還兵でもある人だ。
しかも、その事件で辛うじて生き残った首相を、反乱軍からかくまった女性と、兄が身近だったと言う。
もちろん、事件当日の真相は長らく閉ざされたままだったそうだ。
1936年の今日は本当に雪だったのかと聞くと、確かに雪で寒かった記憶があると言う。
この事件は陸軍の内部抗争を背景に引き起こされたクーデターであり、戒厳令が出された事件である。
博打屋の叔父はこの事件の研究者であり、貧乏学者であった。
原宿の東郷会館でよく研究会を開いていたことは知っていたが、大学生の博打屋はあまり近寄らなかった。
今にして思えば、あの頃この叔父を利用していれば、もう少し博打屋の人生も変わっていたのだろうが、当時はそんな生き方を良しとしない青年だった。
一度だけ、東郷会館に会いに行ったことがある。
博打屋が原宿に住み始めた時だ。
まだ、パレスランスが出来る前だった。
以来、2・26事件の日が来る度に、母親の兄を思い出す。
子供のいなかった夫婦で、叔父の死後、叔母さんは故郷の愛媛に帰った。
何時亡くなったのか、博打屋は知らない。
文京区白山高橋だけで郵便が届いていた叔父だが、もう少しこの事件について聞いておけばよかった。
それにしても、今日の利用者さんは、昭和の証人として大変な人だと改めて思う。
小学校の最高年で2・26事件を知って以来、この人の人生は昭和の戦争の歴史と共にあるのだ。
今朝、送迎の運転中に聞いたこの人の言葉は、博打屋の胸にズサリと響いた。
何も良いこと無かったよ、の一言だ。
日本の歴史は、82年前の今日を境に1945年の終戦まで戦争の歩みを選ぶ。
この激動期に青春を過ごした人の人生とは、一体どういうものだったのか、残念ながら博打屋には想像すら及ばない。
しかし、日本が戦争への舵をきるに至る当時の時代背景を正確に学び、適正な評価を下すべく現代人の責任は何時の時代にもあるのでないか。
叔父は恐らくその使命を抱いて、この昭和のクーデターを研究していたと思う。
博打屋が生きている限り、今日(26日)は縁薄かった叔父夫妻を思い出す日だ。