梅雨明けはまだだが、関東地方は今日まではむし暑い日となると言う(12日)。
梅雨前線が列島のどの辺りを東西にかかるかによって、日替わりの天気になるようだ。
一昨日(10日)の台風1号は台湾から中国へ抜けたが、拡散したその雲の流れが、日本列島に雨と真夏日の両極端な気象をもたらしているのだそうだ。
まるで真夏の暑さと空に見舞われた地方もあれば、鹿児島県は2日間で例年の7月一月分の雨量となるなど、九州地方の気象状態は未だ不安定のようだ。
ニュースを見ていると、参院選が終わったかと思うと、公示が迫った東京都知事戦の候補者選びで迷走している。
そんなニュースの中で、永六輔氏やザ
・ピーナッツの伊藤エミさんが亡くなっていたと言う訃報が続いた。
永さん83歳、エミさん71歳と言う。
共に昭和を代表する人であった。
博打屋は我が家にテレビが来て以来、この人たちによってお茶の間の娯楽を楽しまさせて貰ってきたと言って過言ではなかろう。
永さんの姿を見たのは3年位前の暮れの紀伊國屋ホールだったか。
既に車椅子だったが、まだ元気だった。
ごまかしのない、確かな見識を持った人であることは、今さら博打屋が言うことではないが、やはり、「見てきたような嘘をつく」知識人ではなく、本当に「見てきた」行動派であると感じさせられた。
この人たちの人と生りは、今日のニュースで詳細に伝えられているが、博打屋には博打屋なりに、この人たちの思い出があり、今日はそう言う思いに耽る人も多いのではないか。
近場の商い場は、今日から始まる大宮競輪だが、実は決して近くはない。
開催中の伊東競輪だって日帰りは出来るが近くはない。
永さんではないが、行動して、自分の目で見て感じることが何事に於ても出発点だろう。
その意味では現場に行くべき博打屋だが、昨日に続き開店休業の日となった。
午後遅く、気になっていた「半夏生」探しに出向いた。
「半夏生(はんげしょう)」とは先日も触れたが7月1日から5日までを言う雑節の一つ。
「半夏」とはカラスビシャクと言う毒草のことで、この頃に生える事から「半夏生」と言う。
この頃は大雨にもなることから「半夏雨」とも呼ばれるが、このところの九州の大雨は正に「半夏雨」でもある。
葉が半分白くなることから「半化粧」とも言う。
既に時期を過ぎているかも知れないが、先日調べた鎌倉光則寺や大船中央公園以外にも、海蔵寺や東慶寺にもある事が分かった。
日が長いので暑さを避けて出向き、先に海蔵寺を見て、先日紫陽花を見たお気に入りの亀ヶ谷切通を抜けて東慶寺に至るのが急きょ描いたコースだった。
光則寺には江の電に乗り換える必要もあったし、何しろ拝観料もかかる。
海蔵寺には歩くしかないが、確か拝観料を取らない寺だと記憶があった。
丁度先日歩いた逆コースになり、鎌倉駅北口から横須賀線に沿って北鎌倉に戻る道になる。
寿福寺や英勝寺を通りすぎ、てくてくと歩く。
途中横須賀線のガードを右に行くと、亀ヶ谷切通に向かう。
海蔵寺は化粧坂(けわいさか)方面の案内板に沿って行き、化粧坂方面に左折しないでそのまま歩くと突き当たりに見えてくる。
鎌倉特有の谷戸の奥になる。
近くに来て漸く以前来た時の記憶が甦り、おおよその事が思い出された。
この「海蔵寺」は臨済宗建長寺派で、山号寺号を扇谷山(せんごくさん)海蔵寺。
建立は応永元年(1394年)、開山は心昭空外(源翁禅寺)。
鎌倉時代に七堂伽藍をもつ規模の大きい寺があったと伝えられるが、鎌倉幕府滅亡時に焼失し、その後応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満の命で上杉氏定が心昭空外を招いて建立、扇ガ谷上杉氏の保護を受けて栄え、多くの言い伝えがある寺だ。
空外は「那須の殺生石」の話で有名で、仏殿の薬師如来坐像は「啼薬師(なきやくし)」「児護(こもり)薬師」と言われ、胎内に仏面を収めており啼薬師伝説がある。
「底脱(そこぬけ)の井」や、鎌倉時代の遺跡「十六の井」があり、「水の寺」とも言われている。
「底脱の井」は鎌倉十井の一つで中世の武将、安達泰盛の娘・千代能がここに水を汲みに来た時に水桶の底がすっぽりと抜けた為『千代能がいただく桶の底抜けて 水かたまらねば月もやどらず』と歌ったことからこの名が付いたと言う。
これは、井戸の底ではなく、心の底が抜けて、わだかまりが解け悟りが開けたと言う解脱の歌と言う。
寺の案内板を読みながら、そうか、何度か来た寺だったよなと思い出すのだが、山門に行くと入口が竹で入れなくなっている。
まだ日は高く明るいのだが、時間は16時30分前である。
夏場だからその時間は大丈夫だと思っていたが、拝観時間は16時までとなっていた。
あちゃ、しまったと思いながら、以前行った事のある裏手の「十六の井」の方に行って何とか裏手の池の「半夏生」が見られないかと回ったのだが、池は見えない。
実は、境内にはここから入れるのだが、既に拝観時間外だから、さすがに入る訳にもいかない。
仕方ないので諦めて反対側の山道を上がって境内を覗いていると、寺の女性と住職が境内の掃除をしていた。
声をかけると女性が近付いて来てくれたので、「半夏生」があると調べて来たのだが、何処にあるのですか?まだ白いですか?と聞いた。
まだ日も高いし、写真だけでも撮りたいので、もしかすると少しだけなら良いですよと言ってくれるかなと、甘い期待を抱いて声をかけたのだが、女性は素っ気なく、裏の池にあるが、もう時期的には過ぎてますねと答えて、それ以上の話にはならなかった。
時間の判断を間違えた博打屋が悪いのだが、写真くらい撮らせてくれるかと儚い期待はあった。
仕方なく、次の東慶寺に期待したが、17時位までの拝観時間の予想は、海蔵寺の現実で甘いことが分かった。
恐らく閉まっているだろうと、亀ヶ谷坂の切通を北鎌倉方面に上った。
この坂は、逆コースなら楽だが、今日(12日)のコースは急登坂となる。
さすがの博打屋も息を切らし、汗が吹き出して来た。
初夏の切通しは緑のトンネルで清々しいが、万が一拝観時間が17時までならと、その時間に間に合わせようと急いだだけに、下りの長い坂も結構堪えた。
坂の途中でホトトギスだろうか、頭の真上でけたたましく鳴く。
真下でスマホを構えても逃げないで、この後後ろ向きに位置を変えて鳴いていた。
何か威嚇でもしているのだろうか。
坂を下り北鎌倉方面に歩き東慶寺に着いた。
山門を見ると閉めてある雰囲気でない。
あれっ?と思い階段を上ると奥まで行けるようだった。
拝観料を取る寺だと思っていたが、すでに閉めたのか、しかし、境内には入れる。
それこそ、東慶寺は余りにも有名で、何度も来ているが、最後に来たのが何時だったか思い出せない位だ。
境内に入った突き当たりに大仏像があり、何となく思い出した。
さらに、さざれ石を見てこの寺を改めて思い出した。
「さざれ石」は学名は石灰質角礫(かくれき)岩と言う。
石灰石が雨水に溶解して、その石灰石を含んだ水が時に粘着力の強い乳状体となり、地下において小石と集結して次第に大きくなる。
やがてそれが地上に出て、国歌に詠まれている如く「千代八千代 年をへて さざれ石 巖となりて 苔のむす」と言う景観実に目出度い石となる。
この石は、国歌発祥の地と言われる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもので、その集結の過程状態が一見してよく分かる石である。
この石にも見覚えがあるが、感動したのはその先の庭に見えた待望の「半夏生」であった。
やったあ!やっと見つけた「半夏」であり、まだ生えていた。
これぞ「半夏生」いや、「半化粧」でもある。
偉い、東慶寺と博打屋は小躍りしたい心境だった。
まさか、入れるとも思ってもおらず、「半夏生」がまだ健在とも思っていなかった。
『汲まぬ井を娘のぞくな半夏生』(言水)
『医通ひの片ふところ手半夏雨』(大野林火)
東慶寺は臨済宗円覚寺派、松岡山(しょうごうさん)東慶総持禅寺と言う。
建立は1285年、開山は覚山志道尼(かくさんしどうに)。
鎌倉幕府第八代執権北条時宗の夫人、覚山志道尼である。
夫から離縁状をもらわない限り、妻からは別れることが出来なかった時代に、駆け込めば離縁出来る女人救済の寺として開山以来600年近く縁切りの寺法を引き継いで来た。
別名、松岡御所と称されるように、寺格の高い尼寺として有名になった。
鎌倉尼五山第二位に列せられている。
明治時代に寺法が終わりを告げ、釋宗演禅寺を中興開山とする臨済宗円覚寺派の禅寺となった。
今日(12日)は文月上弦の月。
慌ただしい夕方の「半夏生」探しであったが、幸いにも夜は明るい見事な半月に見守られた。
周回遅れの日記を書きながら、寺案内をしてどうなるのよと我ながら思い出すが、海蔵寺でがっかりさせられた後だけに、東慶寺での「半夏生」には心底胸がときめいた。
帰る頃に一人の女性が、やはり入って良いのだろうかと言う顔で境内に入って来た。
まさか貴女も「半夏生」探しではなかろうね、とすれ違い様に思ったが、いやいや、貴女、ここは縁切り寺ですよと、後ろ姿に声を掛けたかった。
女一人あの時間、何となく駆け込み寺の所以を感じたのは、博打屋の思い過ぎか。
梅雨前線が列島のどの辺りを東西にかかるかによって、日替わりの天気になるようだ。
一昨日(10日)の台風1号は台湾から中国へ抜けたが、拡散したその雲の流れが、日本列島に雨と真夏日の両極端な気象をもたらしているのだそうだ。
まるで真夏の暑さと空に見舞われた地方もあれば、鹿児島県は2日間で例年の7月一月分の雨量となるなど、九州地方の気象状態は未だ不安定のようだ。
ニュースを見ていると、参院選が終わったかと思うと、公示が迫った東京都知事戦の候補者選びで迷走している。
そんなニュースの中で、永六輔氏やザ
・ピーナッツの伊藤エミさんが亡くなっていたと言う訃報が続いた。
永さん83歳、エミさん71歳と言う。
共に昭和を代表する人であった。
博打屋は我が家にテレビが来て以来、この人たちによってお茶の間の娯楽を楽しまさせて貰ってきたと言って過言ではなかろう。
永さんの姿を見たのは3年位前の暮れの紀伊國屋ホールだったか。
既に車椅子だったが、まだ元気だった。
ごまかしのない、確かな見識を持った人であることは、今さら博打屋が言うことではないが、やはり、「見てきたような嘘をつく」知識人ではなく、本当に「見てきた」行動派であると感じさせられた。
この人たちの人と生りは、今日のニュースで詳細に伝えられているが、博打屋には博打屋なりに、この人たちの思い出があり、今日はそう言う思いに耽る人も多いのではないか。
近場の商い場は、今日から始まる大宮競輪だが、実は決して近くはない。
開催中の伊東競輪だって日帰りは出来るが近くはない。
永さんではないが、行動して、自分の目で見て感じることが何事に於ても出発点だろう。
その意味では現場に行くべき博打屋だが、昨日に続き開店休業の日となった。
午後遅く、気になっていた「半夏生」探しに出向いた。
「半夏生(はんげしょう)」とは先日も触れたが7月1日から5日までを言う雑節の一つ。
「半夏」とはカラスビシャクと言う毒草のことで、この頃に生える事から「半夏生」と言う。
この頃は大雨にもなることから「半夏雨」とも呼ばれるが、このところの九州の大雨は正に「半夏雨」でもある。
葉が半分白くなることから「半化粧」とも言う。
既に時期を過ぎているかも知れないが、先日調べた鎌倉光則寺や大船中央公園以外にも、海蔵寺や東慶寺にもある事が分かった。
日が長いので暑さを避けて出向き、先に海蔵寺を見て、先日紫陽花を見たお気に入りの亀ヶ谷切通を抜けて東慶寺に至るのが急きょ描いたコースだった。
光則寺には江の電に乗り換える必要もあったし、何しろ拝観料もかかる。
海蔵寺には歩くしかないが、確か拝観料を取らない寺だと記憶があった。
丁度先日歩いた逆コースになり、鎌倉駅北口から横須賀線に沿って北鎌倉に戻る道になる。
寿福寺や英勝寺を通りすぎ、てくてくと歩く。
途中横須賀線のガードを右に行くと、亀ヶ谷切通に向かう。
海蔵寺は化粧坂(けわいさか)方面の案内板に沿って行き、化粧坂方面に左折しないでそのまま歩くと突き当たりに見えてくる。
鎌倉特有の谷戸の奥になる。
近くに来て漸く以前来た時の記憶が甦り、おおよその事が思い出された。
この「海蔵寺」は臨済宗建長寺派で、山号寺号を扇谷山(せんごくさん)海蔵寺。
建立は応永元年(1394年)、開山は心昭空外(源翁禅寺)。
鎌倉時代に七堂伽藍をもつ規模の大きい寺があったと伝えられるが、鎌倉幕府滅亡時に焼失し、その後応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満の命で上杉氏定が心昭空外を招いて建立、扇ガ谷上杉氏の保護を受けて栄え、多くの言い伝えがある寺だ。
空外は「那須の殺生石」の話で有名で、仏殿の薬師如来坐像は「啼薬師(なきやくし)」「児護(こもり)薬師」と言われ、胎内に仏面を収めており啼薬師伝説がある。
「底脱(そこぬけ)の井」や、鎌倉時代の遺跡「十六の井」があり、「水の寺」とも言われている。
「底脱の井」は鎌倉十井の一つで中世の武将、安達泰盛の娘・千代能がここに水を汲みに来た時に水桶の底がすっぽりと抜けた為『千代能がいただく桶の底抜けて 水かたまらねば月もやどらず』と歌ったことからこの名が付いたと言う。
これは、井戸の底ではなく、心の底が抜けて、わだかまりが解け悟りが開けたと言う解脱の歌と言う。
寺の案内板を読みながら、そうか、何度か来た寺だったよなと思い出すのだが、山門に行くと入口が竹で入れなくなっている。
まだ日は高く明るいのだが、時間は16時30分前である。
夏場だからその時間は大丈夫だと思っていたが、拝観時間は16時までとなっていた。
あちゃ、しまったと思いながら、以前行った事のある裏手の「十六の井」の方に行って何とか裏手の池の「半夏生」が見られないかと回ったのだが、池は見えない。
実は、境内にはここから入れるのだが、既に拝観時間外だから、さすがに入る訳にもいかない。
仕方ないので諦めて反対側の山道を上がって境内を覗いていると、寺の女性と住職が境内の掃除をしていた。
声をかけると女性が近付いて来てくれたので、「半夏生」があると調べて来たのだが、何処にあるのですか?まだ白いですか?と聞いた。
まだ日も高いし、写真だけでも撮りたいので、もしかすると少しだけなら良いですよと言ってくれるかなと、甘い期待を抱いて声をかけたのだが、女性は素っ気なく、裏の池にあるが、もう時期的には過ぎてますねと答えて、それ以上の話にはならなかった。
時間の判断を間違えた博打屋が悪いのだが、写真くらい撮らせてくれるかと儚い期待はあった。
仕方なく、次の東慶寺に期待したが、17時位までの拝観時間の予想は、海蔵寺の現実で甘いことが分かった。
恐らく閉まっているだろうと、亀ヶ谷坂の切通を北鎌倉方面に上った。
この坂は、逆コースなら楽だが、今日(12日)のコースは急登坂となる。
さすがの博打屋も息を切らし、汗が吹き出して来た。
初夏の切通しは緑のトンネルで清々しいが、万が一拝観時間が17時までならと、その時間に間に合わせようと急いだだけに、下りの長い坂も結構堪えた。
坂の途中でホトトギスだろうか、頭の真上でけたたましく鳴く。
真下でスマホを構えても逃げないで、この後後ろ向きに位置を変えて鳴いていた。
何か威嚇でもしているのだろうか。
坂を下り北鎌倉方面に歩き東慶寺に着いた。
山門を見ると閉めてある雰囲気でない。
あれっ?と思い階段を上ると奥まで行けるようだった。
拝観料を取る寺だと思っていたが、すでに閉めたのか、しかし、境内には入れる。
それこそ、東慶寺は余りにも有名で、何度も来ているが、最後に来たのが何時だったか思い出せない位だ。
境内に入った突き当たりに大仏像があり、何となく思い出した。
さらに、さざれ石を見てこの寺を改めて思い出した。
「さざれ石」は学名は石灰質角礫(かくれき)岩と言う。
石灰石が雨水に溶解して、その石灰石を含んだ水が時に粘着力の強い乳状体となり、地下において小石と集結して次第に大きくなる。
やがてそれが地上に出て、国歌に詠まれている如く「千代八千代 年をへて さざれ石 巖となりて 苔のむす」と言う景観実に目出度い石となる。
この石は、国歌発祥の地と言われる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもので、その集結の過程状態が一見してよく分かる石である。
この石にも見覚えがあるが、感動したのはその先の庭に見えた待望の「半夏生」であった。
やったあ!やっと見つけた「半夏」であり、まだ生えていた。
これぞ「半夏生」いや、「半化粧」でもある。
偉い、東慶寺と博打屋は小躍りしたい心境だった。
まさか、入れるとも思ってもおらず、「半夏生」がまだ健在とも思っていなかった。
『汲まぬ井を娘のぞくな半夏生』(言水)
『医通ひの片ふところ手半夏雨』(大野林火)
東慶寺は臨済宗円覚寺派、松岡山(しょうごうさん)東慶総持禅寺と言う。
建立は1285年、開山は覚山志道尼(かくさんしどうに)。
鎌倉幕府第八代執権北条時宗の夫人、覚山志道尼である。
夫から離縁状をもらわない限り、妻からは別れることが出来なかった時代に、駆け込めば離縁出来る女人救済の寺として開山以来600年近く縁切りの寺法を引き継いで来た。
別名、松岡御所と称されるように、寺格の高い尼寺として有名になった。
鎌倉尼五山第二位に列せられている。
明治時代に寺法が終わりを告げ、釋宗演禅寺を中興開山とする臨済宗円覚寺派の禅寺となった。
今日(12日)は文月上弦の月。
慌ただしい夕方の「半夏生」探しであったが、幸いにも夜は明るい見事な半月に見守られた。
周回遅れの日記を書きながら、寺案内をしてどうなるのよと我ながら思い出すが、海蔵寺でがっかりさせられた後だけに、東慶寺での「半夏生」には心底胸がときめいた。
帰る頃に一人の女性が、やはり入って良いのだろうかと言う顔で境内に入って来た。
まさか貴女も「半夏生」探しではなかろうね、とすれ違い様に思ったが、いやいや、貴女、ここは縁切り寺ですよと、後ろ姿に声を掛けたかった。
女一人あの時間、何となく駆け込み寺の所以を感じたのは、博打屋の思い過ぎか。